航空管制官、再受で医学生なう。

航空管制の話題を中心に。航空と医療をつなぐ。

保安大回想録② 一度は、航空管制官としてやっていこう、と腹を括った

 学生も含めて医師・医学研究者は、ドクターXの世界と同じく、
『今夜も忖度!朝まで御意!!』な付き合いが本当に存在します。帰省中でも同郷の先輩と飲み会があったら当然午前様なので、慣れない非医者家庭の女子学生の親御さんは、
「○○!こんな夜遅くまで出歩くなんて何事ですか!!」
と午前0時前に鬼電かけてきます。あるとき女子学生が携帯を見て青ざめていたので、様子を尋ねたら、
「22時頃から、お父さんから16回も電話が来てました……」
……パパさん、ご心配されるお気持ち、分かります。でもお宅の娘さん、とっくにこの世界に染まってますよ(^^;)GW中も『朝まで御意!!』なUniform Sierraです。

 

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 前回から間が空きました。医学部受験に失敗、経済的困窮から就職を決意、得意の英語を活かしたくて航空管制官を選択、という経緯で私は保安大へ進みました。
 保安大の同期はほとんどが、第一志望で航空管制官を目指していた子ばかりだったので、「何でお前みたいなのが来たの?」という雰囲気。「就職先としての保安大」を認めない空気が当時の本科でした。
 前述の通り、私は管制官の仕事そのものに興味を持てず、毎日とりあえず授業に出て、官執時間が終わると直ちに寮の部屋に戻り、気ままに好きなことをするサイクルを繰り返していました。
 しかし、2年間の本科の研修は、管制官を育成することが目的です。「現場に出せる一定のレベルを求める」と言われても、明確な基準が設定されて公表されているわけではありません(この点に「エリミネート」の制度には問題があると思う。現行は知らんけど)。「がむしゃらに努力して、その姿を他者にアピールする」という発想が無かった私は、「勤務時間以外は仕事のこと(航空管制)を考えない」生活をしていました。

 そんなとき、とある官署の見学で私が興味を持った管制官が、保安大の教官として赴任されました。
 多くの保安大教官は常々、自分の仕事に対する意識を、主観に徹した「俺カッコイイ」な話にまとめていました(いつも私がとりあえず聞き流す話題だったことは言及するまでもない)。しかしこの教官は客観的に話が出来る人で、私にこの場所が何を求めているのか、一番納得できる形で説明し、
「地道に努力できる自分を見せろ」
と発破をかけてくださいました。以降、私は真剣に訓練に取り組み、その教官のようなプロ意識の高い職業人になりたいと思い、航空管制官として「職人」を目指すと決めました。

 それがUSの管制官としてのスタート地点でした。保安大での研修が修了する頃には、働く意識も動機も全く変わっていました。
『管制でパイロットのサポートをしたい』
『英語を生かしたいし、普通の人では経験できないことがあるから那覇アプローチに行きたい』
『キャリアを積んで、将来は海外出向のチャンスを得たい』
それまで低空飛行していたUSの変貌に、同期は「頭でも打ったのかな?りんくうの海(遊泳禁止)に飛び込んだのかな?」と思っていたようです。

 

 保安大2年目の2月下旬、地方の訓練機の多いターミナル官署への赴任が伝えられました。この官署で訓練機の扱いに習熟して、これからの管制官人生、頑張ろう!と熱意に溢れていました。

 

 翌月。あの日の午後、大阪でとても長い揺れを感じました。国家存亡の危機とも呼ばれた、あの出来事でした。教官がすぐにネットの情報を見て言いました。
「US、震源はお前の地元沖だ。」
私は思考が停止しました。